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「ふふっ」

背後で小さくうめく加藤を感じながら、奈緒はゆっくりとした足取りで青コーナーに戻る。
用意してあった丸イスにすとんと腰を掛ける。
セコンドが用意したボトルを受け取りうがいをしながら次の作戦を考える。
ステルス加藤の左腕はさっきのラウンドで完全に不能にした。
少なくともこの試合中は使い物にならないはずだ。
そうなると次の狙いは・・・

「ボディを打ちまくって悶絶させちゃおうかな・・・ううん、あの黄金の右腕だよね」

考えながら思わず奈緒はブルッと武者震いをした。
ボクシング界のホープとして自由に飛び回る彼の片翼はすでにもぎ取った。
残る翼も念入りに弱らせて奪い去る・・・そんなことを想像しただけで、すでに濡れまくっている花弁がさらに潤いを増してしまう。

(やっぱり私ってヘンタイなのかも・・・)

それでもいい、と奈緒は思っていた。
いくら金を積んでも手に入らない、この上ない快感を前に何を迷うことがあるのか。
無意識に呼吸が荒くなる。

「だ、だいじょうぶ?広瀬さん」

ダメージはないはずなのに息が上がっている奈緒を見たセコンドがぎょっとした。

「ええ、平気よ」

仲間からかけられる声も上の空、セコンドアウトのアナウンスとともに奈緒は勢いよく立ち上がった。

反対側のステルス加藤陣営ではジムの会長が吠えていた。

「ちきしょう!こんな短時間じゃなんにもならねぇ!!」

アイシングを施してみたものの、加藤の左腕の腫れは治まらなかった。
満身創痍といっても過言ではない自分の選手を口惜しそうに見つめる会長。

「・・・オヤジさん、あれやってみるよ。」

健気にも加藤は会長に向かってにっこりと微笑んだ。
彼のその目には迷いは無く、まだまだ闘志を充分に感じさせる。
それがまた悲しかった。

(誰が見てももう負け試合じゃねえか・・・加藤、お前には先がある。先があるんだ!)

会長は笑顔で彼を送り出しつつも、左手に密かにタオルを握り締めていた。
危なくなったらこれ以上無茶はさせない。
最後は俺がお前を守ってやる・・・会長の無言の優しさだった。


カーン!

第4ラウンドが始まった。
加藤を一目見て、奈緒は驚きの声をあげた。

「へぇ、なかなか器用なのね」

加藤は右足を前に構えている。
そう、サウスポーの構えだ。

「俺は元々スイッチ(両利き腕)ボクサーとしての修練を積んでいるんだ」

加藤の右腕がすっと上がり、奈緒に向かってジャブを繰り出した。

ボヒュッ!!

(速いっ・・・)

初めて見せる奈緒のバックステップ。
彼の右ジャブは付け焼刃ではない、と感じた。
もしかしたら左よりもキレがいいと感じさせるほど、彼の右ジャブはすばらしかった。

「少し見直したわ。」

「そりゃどうも・・・」

応戦する奈緒の左と同じくらい早い右。
拳だけではなく会話も刺しあう。
加藤と奈緒はしばらくの間お互いを牽制し合った。

「すげーよ、加藤!スイッチだったか!?」

諦めかけていた観客のボルテージも上がってきた。
ステルス側のセコンドも応援に熱がこもる。
ジムの会長がタオルを握り締めた手を緩めたそのときだった。

「でも、右手だけじゃ私に勝てないわよ」

ゴッ

「ぐわああああぁぁっ!!!」

ジャブを出した右手が伸びきったところを奈緒はスナイパーのように打ち抜いた。
加藤の肘と手首の間の柔らかい部分を容赦なく右フックが叩き潰したのだ。
大きく右腕を弾かれた彼はバランスを崩した。

「ほらほらぁ」

パンッ、ドムッ!!

そこへ追撃の左ショートアッパーとフックのコンビネーション。
弾かれた右腕をさらに下から突き上げ、綺麗にがら空きになったわき腹をしたたかに打った。

フォンッ

「あら、よけられちゃった」

よろめきながらも3発目はかわす加藤。
当たる寸前の右ストレートを避けつつ、苦し紛れで左を放った。

パンッ

「きゃっ」

その左が奈緒の首筋を捕らえた。
そしてそのまま尻餅をついてしまう。

「ダウンッ!」

「え、うそっ!?」

ざわめく場内。
当てた側の加藤も信じられないといった様子で、ゆっくりと立ち上がる奈緒を見つめていた。


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