<1>
理性がなくなったわけではない。
感覚も死んだわけではない。
しかし、我々はかけがえのないものを失った。
その失ったものは、二度と我々の元へは戻るまい。
ガラスの向こうに雀たちのさえずりが聞こえる。
僕は朝食のトマトを口に運んだ。
食卓の向かいには、じっとこちらを見つめる彼女がいる。
こうやって一緒に過ごすとき、僕の全神経は、幸福さのあまり
麻痺してしまう。
彼女の一挙一動が、僕の感情を高揚させ、喜びに震わせ、毎秒
ごとに永遠の愛を誓わせる。
僕の心、そしてあらゆる細胞、僕という存在のすべては、彼女
の所有物であることに最高の喜びを感じるのだ。
だから、彼女に従属する限り、絶え間ない幸福感に溺れさせら
れるのである。
乾いた喉に大量の水を注ぎこまれるように。
結婚してすでに5年がたつというのに。
初めて肌を重ねた以上の緊張と鼓動が、毎朝の僕を苛んでいる。
ずっとこんな感じなのだ。
たちの悪い拷問に似ている。
僕は死ぬまで、妻である彼女に恋焦がれ続けなくてはならない
のだ。
「おはしが進まなくなっちゃったね?」
気がつけば、彼女と見つめあっている。
含み笑いを浮かべて、苦しむ僕を楽しそうに見ている。
その表情に、僕は恍惚となった。
長い被調教生活のせいか、ちょっとした微笑みが僕の性を強烈
に刺激する。
「別に、ちょっと考えごとをしてただけさ。」
「あたしのことじっと見てると、色々思い出しちゃうよ?」
白いブラウスに山吹色のカーディガンを着た彼女。
自分ではしを持つことはない。
はしなど必要ないのだ。
彼女の食料は、僕の精なのだから。
「別に、思い出したからどうだっていうんだよ。夫婦なんだか
ら、おかしいことないだろぅ。ちょっとくらい・・・くっつい
てたって、・・・夫婦なんだから。」
「そういってもらえると、嬉しいな。今日もおいしいご飯
を作ってあげるからね。」
「別に・・この朝ごはんだって、十分おいしいし・・」
「いいよね、結婚記念休暇って。」
「始まってまだ三日だなんてね、こんな調子じゃ、何回も
結婚したくなっちゃうよ。」
「えへへ、あたしはいいよ。結婚式はどこでもタダでして
くれるしね。」
社会のあり方は、ここ数年で大きく変わった。
結婚は義務、結婚式は無料。
人間族の勤労は許可制。
勤労者は、毎年三ヶ月間の結婚記念休暇を取得しなくてはならない。
この休みは、勤労する暇を削って、妻のために精と愛をささげるため
のもの。
我々の社会の中心は貨幣経済ではない。
貨幣の占める役割は、いまや非常に限定的だ。
貨幣自体が、モノに近いといってよい。
社会の中心となる概念は、主と従のつながりである。
つまり、僕と彼女のような家庭がこの社会の構成要素。
支配するサッキュバス族と支配される人間族。
サッキュバス族は、人間族に生涯にわたり幸福を与える。
人間族はサッキュバス族に生涯にわたり愛と精をささげ続ける。
人間族は、女という性を失った。
サッキュバス族により強制的に排除されたのだ。
それゆえ、人間族の子孫はサッキュバス族によって作られる。
人間族のみで子孫を作ることはできなくなってしまった。
かつて我々が保持していた高度な技術力も、すべて彼女たちの所
有物となり徹底的に管理されている。
人間族には、抵抗する力はほとんど残されていない。
この日本、あるいは海外で、一部の抵抗勢力がサッキュバス族と
戦いを続けている。
残念ながら、その勢力は衰退の一途をたどっている。
長くはもつまい。
遅かれ早かれ、皆、サッキュバス族の捕囚となるのだ。
僕のように。
僕こそは、おそらく、サッキュバス族に屈服した戦士の第一号。
不名誉なことだが、認めなくてはならない。
しかし、この不名誉の上にこの生活が成り立っている。
「戦ってるときから、好きだったんだ。」
ふと、想いが口をついて出る。
慌てて口をつむぐが、言葉は彼女に届いてしまう。
「いっぱい愛してくれたの、今でもよく覚えてるよ。戦うことな
んかそっちのけで、あたしのことばっかり求めて。すごく嬉しか
ったよ。」
「だって、仕方ないんだ。好きだって想いはとめられないんだか
ら。いまだって・・そうだよ。」
「もうっ、朝からそんな調子なの?ほら、元気な朝のスタートは
朝食から。考える前にまずご飯を食べて。さめちゃうぞ。」
「ああ、ごめん・・」
でも、本当のことだ。
かつて、僕と彼女は戦っていた。
その最中。
僕は、敵である彼女に墜とされてしまったのだ。
受け止めきれないほどの愛情と快楽の海に呑み込まれ、溺れ死んだのだ。
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